武道の流派は星の数ほどあります。格闘技も武道として捉えるならその数は更に増えることでしょう。そもそも武道の源流を遡るとその起源は中国だと言う説が有力です。
武道と言うのは実は宗教と密接な関係があります。私が知り得る武道の始まりをお話しします。
皆さんは中国で武道と言うと中国拳法が馴染み深いのではないでしょうか?ジャッキーチェンが80年代に主演していたカンフー映画が一気に知名度を上げましたね。酔拳や動物や昆虫の動きを模した象形拳、八極拳とか名称を挙げればキリがありません。その中の一つに少林拳(しょうりんけん)と言う拳法がありますがこれは中国拳法の中にあっても歴史が古く源流に近い流派と言われています。
この少林拳が生まれた場所こそがかの有名な嵩山少林寺少林寺(すうざんしょうりんじ)です。これは元々、禅宗の仏僧の修行法の一つだったそうです。日本にも少林寺拳法というものがありますがこれは日本で生まれて少林拳とは全く別のものになります。
武道の種類や発生の起源、歴史を語り始めると全く収集がつかなくなります。ここでは文明の発生当初から宗教と同じくらいの古い歴史があり世界中から宗教と同様に発展、細分化して中には宗教の修行の一つとして用いられた武道もあった、くらいの認識で大丈夫です。
私が何故、武道に魅せられ自身もその実践者となったのか長らく謎でした。強くなりたいから なぜ強くなりたいのか? 喧嘩に勝ちたいから なぜ喧嘩に勝ちたいのか? 不当な暴力に屈したくないから どんな理由も今ひとつしっくりきません。
そもそも日本は法治国家です。無政府国家に生まれ、生まれた時から内戦状態の中で自分の身は自分で守る為に武装すると言うのなら理解できます。しかし今の日本では例え当人同士が合意した上で喧嘩したとしても怪我を負わせれば傷害罪という罪に問われ国の法律により自由が剥奪されたり制限されてしまいます。個人が武力を持とうとする合理的な説明が出来ません。
自由が剥奪されるリスクを冒してでも他人をブン殴るのが三度の飯よりも好きと言うのなら理解出来ます。でも私は喧嘩は好きではありませんし今までの人生において殴り合いの喧嘩すら一度もしたことがありません。願わくば殴り合う様な喧嘩は死ぬまで縁がないことを心から願っています。
ああ!一つ理由が見つかりました。喧嘩をしたくないから喧嘩に強くなっておく、喧嘩になっても困らない様に喧嘩の準備をしておくです。
例え話です。
あなたの自宅に侵入者が来たとします。あなたが丁度、帰宅した時に侵入者が自宅に侵入して行くのを目撃します。侵入者はあなたに目撃されたことは知りません。あなたの自宅の中にはあなたが大切にしている自分の命にも変えられないものがあります。それは愛する奥さん、旦那さんかもしれません、自分の血肉を分け与えた大切な子供かもしれません。あるいは石にかじりつき爪に火を灯す思いで貯めたタンス貯金の現金かもしれません。お金では買うことの出来ない世界に一つしかない宝物なのかもしれません。でもあなたの自宅は防犯対策はばっちりです。最新の防犯カメラも稼働していますし民間のセキュリティー会社の緊急通報ボタンも今、押しました。110番にも通報済みです。あなた自身も侵入者の顔をしっかり見ています。必ず侵入者は捕まり法律に照らし合わせて犯した罪に応じた相応の罰を受けるでしょう。でもあなたの大切なものは失われる可能性が非常に高いです。
あなたならどうしますか?
正しい答えはありません。全て自由意志です。
私なら大切にしているものを奪われるくらいなら自身の命など投げ出して戦います。戦わずに奪われてしまったならきっと奪った者よりも戦わず傍観していた自分を許せないと責めるでしょう。
でもこれもエゴから来る私闘ですかね(笑)
何がそんなに大切なのかって?
私の大切にしているものは信仰心と飼い猫です。
次回に続く
byゆたんぽ
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特に小、中、高生の頃は、雄の肉体の本能として、喧嘩(戦う事)に強いと言う事は有利に働くと思います。大人になれば全く関係ないのでしょうが、男としては憧れるのではないでしょうか?
私の場合は、年代的に小学生の時はブルース・リーが好きでした。手造りのヌンチャクは、頭に当たるとチョー痛かったです。
潜在する宗教心も相まってか、日本の少林寺拳法のあの道着は憧れました。
色々な意味で、「戦う」と言う事は、基本的に大切な存在を守るという行為なのだと思います。
僕も何か習って強くなりたいです(苦笑)
なかなか仕事の人間関係とか大変なんですよね~^^;
実際に殴ったりはしなくても「コイツは強い」って思わせておくだけでも態度が変わってきますからね~(-.-;)