未熟さの自覚

宗教やその類似団体の中には、人間の持つ本質的な素晴らしさを、強調するところが少なくないようです。

その根底には、人間は本質的に素晴らしい存在なのだから、その素晴らしさを肯定して引き出してあげるだけでよい、などといった考え方があるのかもしれません。

確かに、このように考えると、落ち込んでいる時に元気が出て、気持ちが楽になるようなことはあるかもしれません。

また、人間の中には、自己を否定されるより、肯定されたいという心理がありそうですので、人間の素晴らしさを強調する主張は、世の賛同を得やすいと言えそうです。

しかし、私の経験によれば、人間の素晴らしさを強調する主張は、一時しのぎにはなっても、根本的な救いをもたらすものではないと言えます。

それどころか、人間を真の救いから遠ざけかねません。

なぜならば、どれほど人間の素晴らしさを強調しても、それは肉体の脳内のことで、《幽体》などの《霊的身体》が健全化したり、成長することはないと考えられるからです。

さらに、それほど素晴らしい人間には、《高級な霊魂》の方々の助力や指導は必要ない、ということになってしまいかねません。

そうなると、本物の《守護霊・指導霊》が遠ざかり、代わりに下の世界から、自称指導霊が干渉してくるような事態になりかねないわけです。

残念ながら、人間はこの世にある限り、食べなければ生きられない、という制約から逃れることは出来ません。肉体があるからです。

この世の物質は有限ですので、自身や家族を飢えさせないためには、争わなければならないこともあります。

つまり、どんなに自身を素晴らしい存在だと認定しても、この世で本当に愛の塊となって、完璧な利他的な愛を実践出来る人など存在しません。

自身を最高の善人と認定しても、たとえ神の子と認定しようが、生きるためには、日々、動植物の肉体生命を奪い続けるしかありません。

そのような現実を直視した時に、私達は、安易に自身を「愛が深い」とか「善人」である、などと思えなくなるものではないでしょうか?

この現実から目を背けたところに、決して真の救いはない、と私達は知る必要があるのではないでしょうか?

そして、自身の人間としての未熟さ、罪深さを自覚した上で、神仏や《守護霊・指導霊》に頭を下げて指導を乞う。

その謙虚で素朴な《信仰心》こそが、《守護霊・指導霊》の指導を受けるためには、必要不可欠のように思えるのです。

今ほど、その《信仰心》をもって、《神伝の法(《神伝禊法》と《神伝鎮魂法》)》を求めることの重要性が、高まっている時代はないと申せましょう。

もはやそれ以外には、私達が真の救いを得る道はない、というのが現実だと申し上げざるを得ません。

確かに、私達の中には、高級で素晴らしい部分が存在しているようです。

それは人間には、他の動物にはない《霊体》という高貴な身体と意識が存在していることからも明らかです。

ただし、その高級な部分は、肉体の脳内にあるわけではないので、通常は表現されていません。

《神伝の法》の《霊的トレーニング法》を習得し、日々実習を続けるうちに、《幽体》や《霊体》が成長すると、その成長の度合いに応じて、徐々に表現されるようになってくると考えられるのです。

byなおいー

 

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未熟さの自覚」への3件のフィードバック

  1. 「未熟さの自覚」、気づかぬうちにはまってしまいがちな落とし穴ですよね。
    自分にあるかもしれない美しさを夢想して現実逃避をしてしまえば、どんな救いの道も見えなくなって当たり前ですが、
    でも、人間は弱い生き物だから、自分は素晴らしい、と感じさせてくれるものを求めてしまいがちですね・・・。
    私こそ気をつけなくては、と改めて思いました。

  2. ネットでは、世界中の不幸な人達の悲惨な事実を知ることが出来ます。そのような人達に、人間の持つ本質的な素晴らしさを話しても、「そんなことより、この状況から救ってくれ」とし思われないと思います。ましてや、現代の劣悪な霊的環境では、死後、下の世界に行く確率が高いそうです。そうなれば、想像を絶する辛く苦しい思いをするそうです。記事にありますように、人間は毎日他の生命を犠牲にしなければ生きてゆけません。どうしてそうなったのか、その根本的な原因が分からなければ救いはありません。肉体で生きている限り、人間は未熟で在り、罪人です。それを自覚すべきです。だからこそ、水波霊魂学と神伝の法が降ろされたのだと思います。

  3. 人間は、どんなに成長しても、自分の食べる物を全て誰かにあげたら死にますからね^^;
    肉体を持っている間は、いつまでも未熟です(-_-;)

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