無信仰の時代

現代ほど人々から信仰心が失われたことは、人類史上、初めてのことのようです。

現代ほど、神仏の代わりに、物質科学が信仰された時代はなく、無神論が常識であるかのように蔓延した時代はなかったことでしょう。

私の物心がついたのは、今から55年ほど前の1960年代の後半の頃ですが(2022年10月記)、比喩的な表現ながら、当時は現在よりも、ずっと神仏を身近に感じる風潮があったように記憶しています。

神仏が存在し、私達は死後も霊魂として存続するのか?それとも神仏も死後の世界も存在せず、私達は死をもって消滅するのか?

現代においては、神仏や死後の世界、霊魂の存在が否定されることが多く、まるで、それらが存在しないと、証明済みであるかのようです。しかし、客観的にそのような証明が成功したことは、1度もないはずです。

逆に、それらが存在すると、客観的に証明されたことがないのも事実です。

すなわち、一方が正しければ、もう一方が間違っているにもかかわらず、客観的には、どちらが真実とも証明されていないわけです。

次元の異なる霊的な世界のことを、この物質界の基準によって、「ある」とも「ない」とも証明することは出来ないわけです。

ただ私は思うのです。

物質科学を信仰し、無神論者となって死後の世界を否定したとして、実際に死後に消滅するのなら、それで良いでしょう。

でももし、死後の世界が存在し、私達もそこで《霊魂》として生き続けるとしたら?

そして、その死後の世界での《霊魂》としての幸不幸が、現在の物質界での人生によって決定付けられるとしたら?

もし、死後の世界に入るための備えを怠ったり、その対処法を誤って、苦しみの世界へ落ちることになったら?

肉体に寿命がある物質界での苦しみは、長くても百年です。でも、寿命のない死後の世界での苦しみは、終わりなく、いつまでも続くかもしれないのです。

何の知識も持たずに、その知識に基づいた対処法も取らずに、死を迎えるほど不安で恐ろしいものはないと私は思います。

繰り返しになりますが、死後の世界や《霊魂》が存在しないと証明されたことは、人類史上1度もないのです。

そうだとしたら、たとえ確信は持てなくても、死後の世界や《霊魂》が存在するかもしれないと思えるのであれば、それらが存在した時のために、情報を集め、必要と思われる対処法を、実践しておくべきだと私は思うのです。

《契山館》では、《水波霊魂学》を学んで情報を得て、《神伝の法》の実習によって、必要な対処を行うことが可能です。

死後の世界での幸不幸を左右する基準は、善悪ではなく、肉体と重なっている《幽体》の状態なのだそうです。

死後の世界で、幸せな世界へ入れるのは、善人ではなく、《幽体》が健全な人。一方、苦しい世界へ落ちて不幸になるのは、《幽体》が不健全な人ということになります。

善悪を定め善行を行うことは、この世においては重要な事ではありますが、死後の世界での幸不幸を定める基準ではないわけです。

《契山館》では、《幽体》を健全化させるための《神伝の法》を習得することが可能です。

ぜひ、将来に備えて、《神伝の法》により、《幽体》を健全化させておいて頂きたいと思います。

byなおいー

 

 

 

 

 

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無信仰の時代」への3件のフィードバック

  1. 先日、ユーチューブショートで気になるサムネイルがあったので見てみました。
    TVにも出演したことのあるメンタリストとか言われている人が動画でキッパリ言っていました。

    「死後の世界を信じる人は馬鹿です!」

    いずれ現実を知ることでしょう。

  2. 科学を信仰している人は、ダークエネルギーとか、二重スリットの実験とか、量子力学とか調べたら良いです。
    今の科学がいかに何も分かっていないか?分かると思います。

  3. 科学の最先端にいる方で、死後の世界の存在の可能性がありうる、としている方もいらっしゃるようですね。知っているからこそ、ただ否定しない、それこそ科学的な視点だと思います。
    なおいーさんがおっしゃる通り、ただ否定するのではなく、真剣に考察する必要があります。何しろ、誰にでもいつか必ず死後はくるのですから。

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