正常性バイアスという邪霊の罠

 

正常性バイアス(せいじょうせいバイアス)とは

認知バイアスの一種。社会心理学、災害心理学などで使用される心理学用語で、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、逃げ遅れの原因となる。

人の心は予期せぬ出来事に対して「鈍感」にできている。予期せぬ変化や新しい事象に心が過剰に反応して疲弊しないためのはたらきで、ある程度の限界までは、正常の範囲として処理する心のメカニズム。

近年の研究によれば災害発生時に実際にパニックが起こるのは稀なケースであるとされ、むしろ災害に直面した人々がただちに避難行動を取ろうとしない原因の心の作用として注目されている。

[具体的な例]

東日本大震災

地震発生直後のビッグデータによる人々の動線解析である地域では地震直後にほとんど動きがなく、多くの人々が実際に津波を目撃してから初めて避難行動に移り、結果、避難に遅れが生じたことが解明された

御嶽山噴火災害

死亡者の多くが噴火後も火口付近にとどまり噴火の様子を写真撮影していたことがわかっており、携帯電話を手に持ったままの死体や、噴火から4分後に撮影した記録が残るカメラもあった。

ここまではウィキペディアより抜粋引用(参考ページURL)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B8%B8%E6%80%A7%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9

心理学は人間の脳の思考に関する学問です。即ち脳という器官を使用して思考する人間は多かれ少なかれ影響を受けその支配下にあると言えます。

個人的見解ですが、狡猾で人の心に付け入る隙を熟知している邪霊達は(元は我々と同じ肉体を所持していた人々ですから当然なのですが)正常性バイアスを巧みに使い霊的真理(法則)から人々の目をそらし今、生きている人達が他界した後、自分達の下僕にすべく地上世界の霊的環境の悪化を画策しています。

多くの人々が死後行き着く先は地獄として表現していい場所なのかもしれません。

「霊的真理?   霊的環境?   自分は何の罪も犯していないし何も悪いことをしていないのだから地獄には落ちるはずはない! 地獄は罪人が行く場所だから他人ごとだね。」

 

知らないことは罪です。

知ろうとしなかったことは大罪です。

 

注)個人的見解に基づくものです。

 

byゆたんぽ

 

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お盆

最近ではあまり見かけませんが、この時期は迎え盆と言って、このあたりでは玄関先や門のあたりにキュウリやナスに割り箸を突き刺し牛や馬に見立ててお盆様(ご先祖様)を迎える準備があちこちで見かけられました。

私は生まれが群馬ではないので小学生のころはそちらにもよく遊びに行っており、記憶がごっちゃになっているところもあるのですが、いずれにしましても普段は気味が悪い仏壇やお墓でも、お盆の季節は賑やかでしたし、子供心に普段食べることが出来ないようなお菓子や果物が供えられ、後々それを食べることができたので、夏休みと相まって、どちらかと言うと楽しい季節だったような記憶があります。

お盆の仕来りの正しい由来は分かりませんが、お墓参りや仏壇に手を合わせていたのだから仏教の仕来りなのだと思います。

ところが、少し勉強すると分るのですが、仏教は霊魂を認めていないらしいです。

だとすると、仮に死後の世界があり、そこにご先祖様が今でも生きているとしたら、霊魂を認めていない仏教は、いったい誰に向かって供養しているのでしょう?
何回忌とかいろいろ法要がありますが、霊魂を認めていないのに、供養は成り立つのでしょうか?

そんな疑問は残りますが、昔の庶民はそんな難しいことは考えません。そんなことより素朴な信仰心だけで、漠然と死後の世界には神仏が存在していて、ご先祖様もそっちの世界で幸せに暮らしているのだろうと信じていたのかもしれません。

そうなんです。そこで今も生きているんです。しかし、理想通りとは限らないのです。もしかしたらとんでもない世界で苦しんでいるかもしれません。

今生きている私たちも、いずれは死後の世界へ行くことになります。やはり自分の理想通りとは限りません。
「自分は何も悪いことはしたことがないからそんな心配はいらない」
「特に人に恨まれることもしていないし、普通に暮らしているのだから、普通の所に行くんじゃね?」
と考えている方もいるかもしれませんが、どうやらこの世の善悪とあの世の行先は関係ないらしいです。

そろそろ本当の事が知りたいと思いませんか?

水波霊魂学にはその答えがあります。

byガンリキ

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「宗教ではありません」という霊的活動の危険

編集部より(石枩子様よりご寄稿いただきました。)

「宗教ではありません」と前置きする霊的活動をたまにお見かけします。
宗教はマイナス面だけではないのですが、そういう面を避けたいのだと思われます。

ところでよく考えてみるとこれは大変に霊的に危険な問題かもしれません。

宗教であるならば、基本的には、高貴な存在を前提としてそちらに思いを届けよう、より近づきたいとの信仰心をもつようになります。

(なお、目先の願いをかなえて安楽に過ごしたいとするご利益信仰は考えから外すこととします。)

宗教であるならば、まず真剣な祈りがどこかで出てくることになります。

祈りの対象は高貴な存在であるため、そうした存在に届くかどうかはともかく、指導霊の方々や補助霊の方々の目に留まる可能性が十分あります。

 

しかし、宗教でない、それなのに霊的な事柄を扱うと言う場合、いったい何をするのでしょう。思いついたものを上げてみますと

1.内なる神を信じます

2.宇宙と波動をあわせます

3.幸せを引き寄せるアイテムを活用します

のようです。3はご利益信仰と同じであえて踏み込みません。2も困ったと思うのですが、それよりも1は大変に危ないように個人的には思われます。

ただし、過去の宗教思想の中には似たような内容があります。今はその内容の是非ではなく実践項目としてこれを掲げた場合の危険を書き記してみます。

 

さて、人間は未熟で、自分という個性には限界があります。自分をどんなに掘り下げたとしても、より進んだ方に学ぶ方がはるかに良いことですので、むしろ外にいらっしゃる霊的に高貴な存在に祈る方が、接点を持ちうる可能性をふまえると、霊的にははるかにいいことであると思われます。

これが、内なる神にこだわりますと、実際にいらっしゃる方々に信仰心や祈りを向けなくなります。

そして、指導的な霊魂が何か手を貸したく近づいたとしても、本人の思いは内なる神にしか向かっていませんので、外に現実にいらっしゃる指導的な存在を結果的に拒絶することになります。

本人の自由意思を尊重するため、指導的な霊魂は手が出せなくなります。

その一方で邪霊は自由意思の尊重などお構いなしなので、堂々と干渉してきます。

これは大変にこわいことです。実践されている方はいろいろ理屈をお持ちでしょうが、私程度の理解であっても、このことの霊的な危険性くらいはわかります。

誰がこれを思いついたのでしょうか。もしも邪霊の発想なのだとしたら、怖ろしく狡猾で非常にこわさを感じます。

そして内なる神にどんなに祈っても、その想念はどこにも行かないでしょう。

祈れば祈るほど邪霊の格好のおもちゃとなる想念がその辺に溜まる一方で邪霊に見つかりやすくなるようなものです。

宇宙と波動をあわせるというのもこれに似ていますが、こちらは一応外には向かっています。ただし、宇宙といったところで対象が明確ではありませんので、念がどこかに向かうとは思いにくいことと、抽象的な祈りであれば宗教の真剣な祈りにくらべてあいまいではっきりしないものになり、こちらも危険かと思われます。

 

霊的な方々がいらっしゃることを認めて受け入れ、指導をお願いするという当たり前の宗教的行為が実に大切であり、真剣で強い祈りをもって指導霊の方々とつながり、そして神伝の法による霊的な力を受けることができるということの重要性をあらためて実感した次第です。

信仰心は大切です。霊的な存在による指導は大変ありがたいものです。そして御力との接点をもてる神伝の法を行えることのありがたさを強く強く噛みしめる次第です。

by 石枩子

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