ネクタリンの木の上で。

私が住む長野北信地方は果物栽培が大変盛んで、桃、プルーン、ブドウ、栗、リンゴと様々な種類が作られています。私の家でも果物栽培をしております。

今時期は、桃とネクタリンの出荷が最盛期を迎えています。
私は、このネクタリンが大好きで、収穫を毎年とても楽しみにしているのですが、首都圏の方にはあまりなじみがない果物かもしれません。

杏とモモの掛け合わせで、甘酸っぱくて固めの歯ごたえ。木の上でしっかり熟れて、少し柔らかくなってきたようなものは、マンゴーのような濃い鮮やかな味わいで、暑い季節にとても似合います。瑞々しい桃も大変美味しいものですが、味のはっきりしたネクタリンの方が好きだという方もよくいらっしゃいます。

朝一番のセリに間に合わせたいので、日の出とともに収穫を始めます。
夜露でぬれた梯子に足が滑って、ヒヤリとした事は何度となくありますが、この辺りはお年寄りが多く作業されているので、梯子から滑り落ちて骨折、そのまま寝たきりになった、なんて方の話も聞きます。(明日は我が身! 😥 )

農作業での危険は、骨折、寝たきり、農耕機に挟まれて死亡・・・と、色々ありますし、歳をとっても美味しい野菜や果物を作るために、安心・安全作業は何より優先して気をつけなければ、と思っております。

 

さて、霊的な修行の世界にも、自分の身の安全を守るために、知っておくべき危険というものがあり、
一般の方にも是非知っておいていただきたいことの一つとして、霊的修行法の独習の危険性があります。

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幽体の存在

人々から信仰心がなくなり、宗教が嫌われる中、社会生活を円滑に行うには霊的な話は禁句なのかもしれません。

「お金の貸し借りと宗教は友達を無くす」とも言うようです。

ですが、私は契山館に入会して数十年、初めから隠すことなく人に霊魂学と神伝の法の話をしてきました。

入会したての頃は「人が知らない事を自慢したい」と言う程度の浅はかな考えだったことは否定できません。そのせいもあってか陰で人に馬鹿にされていたと思います。

もともと頭が悪い奴が、更におかしなことを言い出したと思われていたのかもしれません。

人の陰口は言いたい放題です。

それでも、私には信念があったのでその姿勢を曲げることはありませんでした。

人に馬鹿にされながらもその姿勢を曲げず、仕事も社会人として普通にこなし、発言も常識的であれば、そのうちそのキャラが定着し、周りも特に気にしなくなってきたと感じます。(変わり者のレッテルは張られますが。)

そうなると、逆に霊的な問題を抱えた人や、霊的なことに興味がある人は半信半疑かもしれませんが、相談して来たりすることもあります。

そういう時は、まず「幽体」の存在を知ってもらいます。

 

水波霊魂学の定義を知らない人には、かなり噛み砕かないと伝わりません。

「もし仮にあの世があり、今と同じ姿で生き続けるとしたら、肉体は焼かれてしまうのだから、物質とは違う何かでできた体があるはずです。

それが、所謂、幽体と言われるものです。

その幽体は、今現在この肉体と重なっています。

物質とは違う為、霊的な糊のような気でくっついています。

何か失敗した時など(あの時、本当はこう思っていたのに何でああしてしまったんだろう?)と後悔する時がありますよね。

それは、実を言うと幽体からの衝動なんです。

肉体にも心がありますが、幽体にも心があります。

その幽体の心の衝動が、人生の岐路に立った時、大きく影響するんです。」

のような説明をすると、大体の方は理解してくれました。

(大分端折っておりますが。)

 

霊的な事に興味がある人は、まず「幽体」知って下さい。

その心を知って下さい。

そして「幽体」も汚れを落としたいし、栄養が欲しいと訴えていることを知って下さい。

by ガンリキ

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「宗教ではありません」という霊的活動の危険

編集部より(石枩子様よりご寄稿いただきました。)

「宗教ではありません」と前置きする霊的活動をたまにお見かけします。
宗教はマイナス面だけではないのですが、そういう面を避けたいのだと思われます。

ところでよく考えてみるとこれは大変に霊的に危険な問題かもしれません。

宗教であるならば、基本的には、高貴な存在を前提としてそちらに思いを届けよう、より近づきたいとの信仰心をもつようになります。

(なお、目先の願いをかなえて安楽に過ごしたいとするご利益信仰は考えから外すこととします。)

宗教であるならば、まず真剣な祈りがどこかで出てくることになります。

祈りの対象は高貴な存在であるため、そうした存在に届くかどうかはともかく、指導霊の方々や補助霊の方々の目に留まる可能性が十分あります。

 

しかし、宗教でない、それなのに霊的な事柄を扱うと言う場合、いったい何をするのでしょう。思いついたものを上げてみますと

1.内なる神を信じます

2.宇宙と波動をあわせます

3.幸せを引き寄せるアイテムを活用します

のようです。3はご利益信仰と同じであえて踏み込みません。2も困ったと思うのですが、それよりも1は大変に危ないように個人的には思われます。

ただし、過去の宗教思想の中には似たような内容があります。今はその内容の是非ではなく実践項目としてこれを掲げた場合の危険を書き記してみます。

 

さて、人間は未熟で、自分という個性には限界があります。自分をどんなに掘り下げたとしても、より進んだ方に学ぶ方がはるかに良いことですので、むしろ外にいらっしゃる霊的に高貴な存在に祈る方が、接点を持ちうる可能性をふまえると、霊的にははるかにいいことであると思われます。

これが、内なる神にこだわりますと、実際にいらっしゃる方々に信仰心や祈りを向けなくなります。

そして、指導的な霊魂が何か手を貸したく近づいたとしても、本人の思いは内なる神にしか向かっていませんので、外に現実にいらっしゃる指導的な存在を結果的に拒絶することになります。

本人の自由意思を尊重するため、指導的な霊魂は手が出せなくなります。

その一方で邪霊は自由意思の尊重などお構いなしなので、堂々と干渉してきます。

これは大変にこわいことです。実践されている方はいろいろ理屈をお持ちでしょうが、私程度の理解であっても、このことの霊的な危険性くらいはわかります。

誰がこれを思いついたのでしょうか。もしも邪霊の発想なのだとしたら、怖ろしく狡猾で非常にこわさを感じます。

そして内なる神にどんなに祈っても、その想念はどこにも行かないでしょう。

祈れば祈るほど邪霊の格好のおもちゃとなる想念がその辺に溜まる一方で邪霊に見つかりやすくなるようなものです。

宇宙と波動をあわせるというのもこれに似ていますが、こちらは一応外には向かっています。ただし、宇宙といったところで対象が明確ではありませんので、念がどこかに向かうとは思いにくいことと、抽象的な祈りであれば宗教の真剣な祈りにくらべてあいまいではっきりしないものになり、こちらも危険かと思われます。

 

霊的な方々がいらっしゃることを認めて受け入れ、指導をお願いするという当たり前の宗教的行為が実に大切であり、真剣で強い祈りをもって指導霊の方々とつながり、そして神伝の法による霊的な力を受けることができるということの重要性をあらためて実感した次第です。

信仰心は大切です。霊的な存在による指導は大変ありがたいものです。そして御力との接点をもてる神伝の法を行えることのありがたさを強く強く噛みしめる次第です。

by 石枩子

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なぜ、今、契山館なのか

契山館は、霊媒である水波一郎師が、高級霊魂の方々から受け取られた、水波霊魂学を学び、同様に、水波師を通して神霊が与えて下さった、神伝の法という修行法を実習する団体です。

それらにより、幽体と呼ばれる霊的身体等を鍛え、霊的な成長を目指しています。

さて、それではなぜ、今、私たちは契山館で学ぶ必要があるのでしょうか?

昔は、現代ほど霊的な環境が悪くはなかったので、伝統的な宗教を真面目に信仰していれば、死後は普通に幸せに生活できる世界に、入れる可能性が高かったそうです。

しかし現代は、人々から素朴な信仰心が失われ、良好な幽気(霊的な気)が降りる場所がなくなりました。

さらに、そこら中を、不道徳な霊魂や邪霊という、未発達で未熟な霊魂や悪霊が、跋扈する時代になってしまいました(肉眼には見えません)。

私たち物質界に生きる人間の肉体には、幽体という名の、死後の世界(幽質界)で、表面に出てくる霊的身体が重なっています。

この幽体の活力を高め、その健康を維持するためには、幽体の栄養源でもある、良好な幽気を吸収することが、必要不可欠なのです。 続きを読む