最近ではあまり見かけませんが、この時期は迎え盆と言って、このあたりでは玄関先や門のあたりにキュウリやナスに割り箸を突き刺し牛や馬に見立ててお盆様(ご先祖様)を迎える準備があちこちで見かけられました。
私は生まれが群馬ではないので小学生のころはそちらにもよく遊びに行っており、記憶がごっちゃになっているところもあるのですが、いずれにしましても普段は気味が悪い仏壇やお墓でも、お盆の季節は賑やかでしたし、子供心に普段食べることが出来ないようなお菓子や果物が供えられ、後々それを食べることができたので、夏休みと相まって、どちらかと言うと楽しい季節だったような記憶があります。
お盆の仕来りの正しい由来は分かりませんが、お墓参りや仏壇に手を合わせていたのだから仏教の仕来りなのだと思います。
ところが、少し勉強すると分るのですが、仏教は霊魂を認めていないらしいです。
だとすると、仮に死後の世界があり、そこにご先祖様が今でも生きているとしたら、霊魂を認めていない仏教は、いったい誰に向かって供養しているのでしょう?
何回忌とかいろいろ法要がありますが、霊魂を認めていないのに、供養は成り立つのでしょうか?
そんな疑問は残りますが、昔の庶民はそんな難しいことは考えません。そんなことより素朴な信仰心だけで、漠然と死後の世界には神仏が存在していて、ご先祖様もそっちの世界で幸せに暮らしているのだろうと信じていたのかもしれません。
そうなんです。そこで今も生きているんです。しかし、理想通りとは限らないのです。もしかしたらとんでもない世界で苦しんでいるかもしれません。
今生きている私たちも、いずれは死後の世界へ行くことになります。やはり自分の理想通りとは限りません。
「自分は何も悪いことはしたことがないからそんな心配はいらない」
「特に人に恨まれることもしていないし、普通に暮らしているのだから、普通の所に行くんじゃね?」
と考えている方もいるかもしれませんが、どうやらこの世の善悪とあの世の行先は関係ないらしいです。
そろそろ本当の事が知りたいと思いませんか?
水波霊魂学にはその答えがあります。
byガンリキ
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>霊魂を認めていないのに、供養は成り立つのでしょうか?
本当に大きな矛盾ですね。
科学で説明がつかない範囲の事をつっつかれると面倒なので、曖昧にしている、ということなのでしょうが、ちょっと調べてみましたら、「この世こそが浄土」とする宗派だったり、あの世を認めないとお墓を建てる意味が無くなってしまうので、認める方向にある宗派、など、色々あるようでした。
結局臭い物にフタをしている状態なのですね。
私が伝統的仏教に、失望したのは、多くのお坊さんが、「人間、死んだら灰になって終わりだ。」と思っていることを知った時でした。
それで先祖供養のためのお経をあげたり、戒名を付けたりして、お経料や戒名料を頂いています。
戒名などは、料金によって入る文字や、文字数に差が出て、それによって、ないはずのあの世での、行き先が変わるがごとく匂わせます。
つまり、高い戒名を付ければ付けるほど、死者が良い世界へ入れると思わせるのです。
詐欺そのものだと、若い頃の私は、ずいぶんと反発しました。
でも、お坊さんに同情するとすれば、大学等でそういう教育を受けますし、矛盾を感じても、世襲で受け継いだ寺を、簡単には放棄出来ません。
供養は多くの場合、残された者への慰めでしょうか。
あとは、生計を立てるための仕事と割り切るしかないでしょう。
ただ、さすがに、信徒さんの前では「死後の世界はない」とは言いません。
お坊さんにも、「水波霊魂学」を学んで頂きたいところですが、霊魂学を信徒さんの前で主張したら、仏教の宗派を破門になりかねないので、難しいでしょうか。
大きな矛盾ですよね~。
家も仏教でしたので、小さい頃から感じていました。
小さい子供でも分かる矛盾をなぜ大人が放っておくのでしょうか?
契山館のホームページを読んで正しい知識を身につけて頂きたいです。