「宗教ではありません」という霊的活動の危険

編集部より(石枩子様よりご寄稿いただきました。)

「宗教ではありません」と前置きする霊的活動をたまにお見かけします。
宗教はマイナス面だけではないのですが、そういう面を避けたいのだと思われます。

ところでよく考えてみるとこれは大変に霊的に危険な問題かもしれません。

宗教であるならば、基本的には、高貴な存在を前提としてそちらに思いを届けよう、より近づきたいとの信仰心をもつようになります。

(なお、目先の願いをかなえて安楽に過ごしたいとするご利益信仰は考えから外すこととします。)

宗教であるならば、まず真剣な祈りがどこかで出てくることになります。

祈りの対象は高貴な存在であるため、そうした存在に届くかどうかはともかく、指導霊の方々や補助霊の方々の目に留まる可能性が十分あります。

 

しかし、宗教でない、それなのに霊的な事柄を扱うと言う場合、いったい何をするのでしょう。思いついたものを上げてみますと

1.内なる神を信じます

2.宇宙と波動をあわせます

3.幸せを引き寄せるアイテムを活用します

のようです。3はご利益信仰と同じであえて踏み込みません。2も困ったと思うのですが、それよりも1は大変に危ないように個人的には思われます。

ただし、過去の宗教思想の中には似たような内容があります。今はその内容の是非ではなく実践項目としてこれを掲げた場合の危険を書き記してみます。

 

さて、人間は未熟で、自分という個性には限界があります。自分をどんなに掘り下げたとしても、より進んだ方に学ぶ方がはるかに良いことですので、むしろ外にいらっしゃる霊的に高貴な存在に祈る方が、接点を持ちうる可能性をふまえると、霊的にははるかにいいことであると思われます。

これが、内なる神にこだわりますと、実際にいらっしゃる方々に信仰心や祈りを向けなくなります。

そして、指導的な霊魂が何か手を貸したく近づいたとしても、本人の思いは内なる神にしか向かっていませんので、外に現実にいらっしゃる指導的な存在を結果的に拒絶することになります。

本人の自由意思を尊重するため、指導的な霊魂は手が出せなくなります。

その一方で邪霊は自由意思の尊重などお構いなしなので、堂々と干渉してきます。

これは大変にこわいことです。実践されている方はいろいろ理屈をお持ちでしょうが、私程度の理解であっても、このことの霊的な危険性くらいはわかります。

誰がこれを思いついたのでしょうか。もしも邪霊の発想なのだとしたら、怖ろしく狡猾で非常にこわさを感じます。

そして内なる神にどんなに祈っても、その想念はどこにも行かないでしょう。

祈れば祈るほど邪霊の格好のおもちゃとなる想念がその辺に溜まる一方で邪霊に見つかりやすくなるようなものです。

宇宙と波動をあわせるというのもこれに似ていますが、こちらは一応外には向かっています。ただし、宇宙といったところで対象が明確ではありませんので、念がどこかに向かうとは思いにくいことと、抽象的な祈りであれば宗教の真剣な祈りにくらべてあいまいではっきりしないものになり、こちらも危険かと思われます。

 

霊的な方々がいらっしゃることを認めて受け入れ、指導をお願いするという当たり前の宗教的行為が実に大切であり、真剣で強い祈りをもって指導霊の方々とつながり、そして神伝の法による霊的な力を受けることができるということの重要性をあらためて実感した次第です。

信仰心は大切です。霊的な存在による指導は大変ありがたいものです。そして御力との接点をもてる神伝の法を行えることのありがたさを強く強く噛みしめる次第です。

by 石枩子

♬♪ お近くの支部集会へ、ご見学に来ませんか? ♪♬

☆✉  メールフォーム  ✉☆


群馬県ランキング ランキング参加中です!

「宗教ではありません」という霊的活動の危険」への3件のフィードバック

  1. 人間はいつからこれほどまでに高貴な霊魂方や神々に対して不遜になってしまったのだろう
    肉体の脳では表現さえ出来ない高級で高次元な世界があるということだけを認めてそれに対して畏怖の念を抱いて生きるだけでもっと自由で幸福に過ごせるのに
    素晴らしい道具〈神伝の法〉があると言うのにその道具を使う意味も目的も見出せぬまま肉の身の欲望に縋って朽ち果てるとは
    どうか我々を導いてお救いください

  2. この3つの項目は、確かによく目にしますね。

    私の経験から、
    「1.内なる神を信じます」、
    について、少々、述べさせて頂きますと、「宗教」であっても「内なる神」と言う所はあります。

    それらの中には、大変、真面目に修行をしている方もおられます。

    しかし、「内なる神」を「神体」と考えるならば、一般の修行者の方が「神体」を所持されているとは、考えにくいでしょう。

    でも、それが、自己の中の、より神に近い高貴な部分だとするならば、間違いとは言い切れないかもしれません。

    ただ問題は、あくまでも「内なる」であって、それが、現実に自分自身のものになっている、わけではないことでしょう。

    たとえ、「内なる高貴な部分」がどこかにあっても、自身が現実に高貴な存在になったと、錯覚することがあってはならないでしょう。

    たとえ、どこまで修行が進んだとしても、肉体を持つ、未熟な人間であることを、忘れてはいけないと思います。

    そして、自身の中の高貴な部分を育て、霊的に進歩向上していくためには、やはり「神伝の法」を実習していくしかないのだと思います。

    やはり、「神伝の法」で幽体を鍛え、それ以上の高貴な身体をも成長させていくことが、全てだと言えそうです。

    それにしても、「神を信じます」と言っておきながら、「宗教ではありません」とうたう所があるのは、誠に不思議なことだと思います。

  3. ただの物欲ではなく、霊的な事を求めて欲しいですよね~。
    確かに人間にも多少高級な意識もあるでしょうけど、
    より高級な存在に協力して頂かない限り成長しません。
    内なる神ではなく、より高級な存在に求めて下さい(´・人・`)

コメントを残す