修行と言うと、未だに難行苦行の印象が強いのではないでしょうか。
確かに、色々な意味で修行と言うと、心身ともに自分を追い詰め、そこから何かを掴み取るものなのかもしれません。
そういった意味では、修行法としての「神伝の法」もそうそう甘いものではありません。
個人的には、「霊的トレーニング」と言うより修行法と言った方が好きですが、やはり宗教色が強くなり受け入れにくくなるのかもしれません。
先日、「神伝の法」について人に話す機会がありましたが、やはり修行のイメージは難行苦行でした。
昔と違い、現代はインターネットで様々な情報が得られます。インターネットを活用しない人でも、本や雑誌で情報を得られます。
その両方を活用しない人もまだまだ大勢いると思います。霊的な事に興味があっても活字を読むことすら嫌いな人も大勢いると思います。
「神伝の法」は未だ有名ではないので、修行と言うと難行苦行というイメージになってしまうのは仕方ない事なのかもしれません。
そんな中、人に話す機会があれば、何とか修行のイメージを変えるために、なるべく「霊的トレーニング」と言う言葉を使うようにします。
そうじゃなくても、社会人は普通にストレスを抱え、精神的に追い込まれている方も多いと思うので、難行苦行では現代人からは縁の遠いものになってしまいますし、修行をしなければ救われないとすれば、現代人のほとんどの人が救われないということになってしまいます。
なので、「神伝の法」は、忙しい現代人のための霊的トレーニングだという説明をします。
時間的には短いものなら10分程度ですし、食事制限もなければ厳しい戒律みたいなものはありません。
普段の生活の中で取れる、少しの時間で続けていけます。
それでも、確実に人間を霊的進歩向上へと導いてくれます。
ではありますが、どうしても一度は合宿形式の研修を受けないと家に持ち帰ることは出来ません。
今後は日帰り研修もあるとのことですが、基本的に本やインターネットなどで習えるものではないのです。
霊的なトレーニングとは、神霊の御意志を受けた高貴な霊魂の指導の下で行うものなので、特別な霊的空間の中で指導を受けなければならない性質のものだからです。
ですが、それさえクリアしてしまえば、後は生活の中に組み込めば良いだけなのです。
・・・・・・・
という説明を加えると、またまた一線置かれてしまいます。
どうすれば「神伝の法」がもっと人々に受け入れられるのか悩んでしまう今日この頃でした。
「これしか救いがないのに・・・」
byガンリキ
♬♪ お近くの支部集会へ、ご見学に来ませんか? ♪♬
私も含めて殆どの人間が資本主義の毒気に侵されていて物事の全てがまるで等価交換でなければ意味がないと考えてしまう風潮が蔓延していますが『神伝の法』に関しては今を生きる人間の為に神霊がかなり歩み寄って与えてくださったと感じています。
霊的生命体の本分としては究極のローリスク、ハイリターンなのですが何故理解してもらえないのでしょうか?
私はおもいます。『神伝の法』は超簡単な「霊的トレーニング」
ただ『神伝の法』を伝え広めることは過酷な修行なのだと
私は修行者でありたいと強く願っております。
それをやって何の得があるの?とか
何かよく分からないと、一般の人は遠慮されそうですね…
霊的価値を求めようとしなければ、仕方ないのかもしれませんが
何とか「水波霊魂学」の本を読んでいただくのが良いのか、うーむ^^;
そもそも「死んだ後の為に」っていう事が理解されないですよね^^;
「何の為に修行してるの?」
「死んだ後に上に行くために!」
「・・・・」
だいたいこれで話は終わりですよ(苦笑)
いずれ誰でも死ぬし、今の人生にとっても必要な事なんですけどね~。
今の人生にも必要って、カルマとかの話をしなきゃいけないから、まずこんな事まで聞いてくる人はいないですけどね^^;
おそらくですが、
特に死後について、つきつめて考えることがなければ
死後の世界は、行いの善悪で判断される。
↓
極悪な犯罪者や理不尽な金儲けに走るのでなければ、悪人ではない
↓
自分は悪人ではない
↓
多分、死後は苦しまない
とのイメージが案外根強いように思います。
痩せたい、と口に出したら、努力したまえと言われますが
死後、安心できる世界にいきたい、と口に出しても
なんで?
という顔をされます。自然に生きていればいいんじゃないの
というニュアンスのことを言われます。
「死後自分が安心できない世界に行く可能性」を誰も思いさえもしないようです。
そんな中で修行とは「特殊なものを身につける」と思われてしまいます。
霊視するとか、気で何かするとか。アニメなどでも特殊能力の開発に修行をもってきます。
そして現実を逃避しているんじゃないか、だって他にそういう人はいないよ、
と考えてしまうようです。
仕方ありません。
どの伝統的宗教も、まわりの人にやさしく思いやりをもって生きることをすすめますし
みなさんは地獄に落ちるかも知れないということは「脅しになる」と怯えてそういう話は全くしませんし、愛を語る方が人気が出ますし、聞いている人は自分には思いやりが全くないと思っていませんし、そうなれば、自分が安心できない世界にいくかもしれない、とは思いさえもしないと思います。
しかし、地獄本やホラーが流行るのですよね。
実際にそういうことはない上での旅行者気分なのかも知れません。
多くの人は死後苦しむでしょう。ということを根拠を持って伝えられるのでしたら違うのかも知れないと、頭を絞っておりますが、そんなうまい方法はでてこないので悩んでいます。
私もトレーニングと言うより、修行と言った方がしっくりときます。
でも、出来るだけトレーニングと言い換えるようにしているのですが、実際には、「修行はダメだけどトレーニングならOK」という方が、どれくらいおられるのかは分かりません。
しかし、同じような団体でも「宗教ではありません」と言うと人が集まり、「宗教です」と言うと嫌煙されてしまう風潮は顕著ですね。
けれども、「宗教ではない」と言えば、《神霊》や《高貴な霊魂》に対する《信仰心》という、一番大切な部分が抜き去られてしまうわけですから、霊的な価値はゼロになってしまうでしょう。
ところで、一般的に修行と言うと、やはり難行苦行とか、特殊な能力開発を思い浮かべる方が多そうですね。
ですが、その一方で、日常生活の中で、善行・愛行に励んで、人格を高めることが修行だとお考えの方もおられます。
それらの方は、日々、十分な修行を行っているとの自覚をお持ちなので、それ以外に修行が必要だとは、夢にも思いません。
どうしたら、「今の時代において、修行の本来の目的を達成するためには、《神伝の法》 によって《幽体》を鍛えるしかない」と気づいて頂けるのか・・・今は、このように、ひたすら情報を発信し続けるしかないのでしょう・・・。
「修行」というには、霊的トレーニングの次第は簡単ですが、そこに流れる力は、正に「修行」という言葉の方が似あっているように感じます。
こんなに神秘的で美しいもの、価値を知れば絶対に合宿にも集会にも人がわんさかと集まって、会員が入れない事態を心配しなくてはいけなくなるはず。
今、この瞬間を生きる為に必要なんだと、
それが死後にも活きてくるんだと分かって頂けたらいいのですが。
もしものお話。まだ、契山館を知らない自分に、契山館を知っている人が話かけて来て聞く耳を持ったかどうか、を考える時、今の、まだ契山館を知らない人たちと、同じ反応をしていたのかもしれないと、思うと、どう切り出したらいいのか、やっぱり難しいな~と思いました。
それでも、本や、ホームページに興味を持ってもらうことが、最善だな~と思います。
皆さんコメントありがとうございます。
契山館の主張は世の中の主張と逆行しているので、なかなか人に受け入れられませんが、それでも直接人に話をしてみると「今まで聞いたことがない」「宗教っぽくない」という感想もよくあります。
書籍を薦めるときは、インターネットを見ない人にはパンフレットは役に立ちます。
それでも、入会にはなかなか繋がりませんが、せめて正しい知識を知ってもらいたくて、聞かれれば水波霊魂学の知識を話すようにしています。
相手には、一つの説としてしか記憶されないでしょうが、覚えてさえいてくれれば、いつか役に立つかもしれません。
今日も、この記事の人とは別の人と話をしました。相手側から聞いてきたので、「冷やかしなら何も話さんぞ!」と冗談交じりに話したのですが、少しは興味を持ったようなので、その人とは今後も話すことがあると思います。
何かありましたらまた、記事にしてみます。
来週もまた別な人と会いますので、チャンスがあればいつでも話す予定でいます。どうせ私は、知り合いにはこういうキャラなので、逆に堂々と話せます。(陰で何を言われているか分かりませんが)(笑)
皆さんのコメントも参考にさせていただきます。