立派な人間とは?

私が霊魂学と出会い霊的修行者となるずっと前に『立派な人間とは?正しい生き方とは?』を深く考えた時期がありました。

自分の中では一定の結論と言うか指針のようなものが出来上がり以降は今日に至るまで自身に対する戒めとして守って生きて来たつもりです。人の数だけ価値観があり人の数だけ、どうしても譲れない思いを抱えて人生を過ごしている人が殆どだと十分理解した上でお話しをさせて頂きます。

この考えが正しいとかこの考えを学んで実践して欲しいとか申し上げるつもりは毛頭ありません。私は自身の考えを押し付けることも他人の考えを押し付けられることも大嫌いなのです。なので私の自由な思考や信仰、心情を侵そうとする者が現れれば国であろうと軍隊であろうと命を賭して戦う覚悟を持って生きています。

少し大袈裟になってしまいましたが、ほんの暇つぶしのお耳汚しのつもりでお気軽にお付き合い頂ければ幸いです。

私が『立派な人間、正しい生き方』として必要だと考える条件とは。

Ⅰ  美意識

Ⅱ  廉恥心(れんちしん)

Ⅲ バランス感覚

の3つを高い次元で持つことです。

「ハッ!  ちょっと意味、わかんないですけど」と言う声がかなり聞こえた気がしますので若干の補足説明をさせて頂きます。

Ⅰ  の美意識とは美しいものを美しいと感じ大切にすると言う気持ちのことです。例えば咲き誇った花を見て「気持ち悪い」とか「咲いた花だけはどうしても苦手」と言う方はおそらく皆無だと思います。関心や評価の差こそあれ、美しいと感じるものは万人に共通した価値のあるものではないでしょうか?

美しいと感じるものは目に見える物だけとは限りません。それは言葉であったり感情であったり行動であったりする訳です。

Ⅱ  の廉恥心とは恥を知ると言うことです。自身の行動や言動をかえりみて「人に笑われるぞ」とか「人として恥ずかしくないのか」と言う思いを客観的かつ正確に理解する心のことです。昨今のメディアに紹介される不適切動画等を見ると恥と言う感情を果たして同じ人間として持ち合わせているのかと疑いたくなる様な現実が目の当たりにされています。

よく言われる「人様が見て居なくても、お天道様がちゃんと見ているぞ!」という言葉をしっかりと理解しているのかと言うことにつながると考えています。

Ⅲ  のバランス感覚とは「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言うことです。どれほど価値や意味があると見出したものや行動であったとしても過剰に集中したり執着することによって逆に全体の機能が損なわれることがあります。「弦は張り過ぎても切れてしまい緩め過ぎたら良い音色を奏でることが出来ない」と言う仏教の中道の精神に当たります。とにかく全体を見渡して程々の良い塩梅になることを意識すると言った意味です。

しかしながらバランス感覚は分かるとしても何を持ってあるいは何を指標として美意識と廉恥心とするかは難しいところです。私としてはそこはご自由にと言い放ってしまうところですがそれでは余りにも無責任だとのそしりを受けてしまいそうですね。別に分厚い哲学書や自己啓発本を読み漁る必要はないかと思います。最初はお手本となる誰かの模倣でも構わないと思います。尊敬できる上司とか友人でもいいでしょう。この人は自分に良い影響を与えてくれると感じる人を良く観察して可能であれば沢山、喋って見れば良いでしょう。でも話してみて自分が共感出来ない部分があれば無理して真似する必要もないと思います。欠点や短所が無い人間は存在しないのですから。

私が美意識と廉恥心の規範としているのは新渡戸稲造著の『武士道』です。そうです旧五千円札の肖像の人です。新渡戸さんの詳細な経歴は割愛させて頂きますがこれは「日本人の思想・習慣の根源にあるものは何か」を考察し英語で執筆されたものが世界的なベストセラーになった著書です。日本人が英語で書いてそれを日本語に訳したものを読んでいます(逆輸入ですね)。訳本は数多く出回っていますので機会があればお読み下さい(私は非常に強い影響を受けました)。

時が経ち霊魂学に出会い契山館の修行会員になり霊的修行を続けていると先の3つの条件に信仰心が加わり、4つの条件になりました。霊的修行を続けていると「立派な人間とは何か?」「良い人間とは何か?」が逆に分からなくなってきます。宗教とは、とかく同じ価値観、思想の人間をコピー機を動かすがごとき大量生産し思考能力を奪われる印象を持たれている方も多いと思います。洗脳されるんじゃ無いかとか怪しい開運グッズを高額で買わされるんじゃないかとか(私も洗脳は怖いですし開運グッズを買えと言われてもそんな余裕は無いので困ります)。心配の種は尽きないかと思いますが、契山館で修行するともれなく自分の頭で考えることを余儀なくされます(笑)。

別に人間性が優れていることが霊的修行に良い影響を与える訳でもありません。私も立派な人間になりたいとは思いつつも「喧嘩っ早いし」「口が悪く悪態ばかりついているし」「へそ曲がりの偏屈オヤジですし」俗人丸出しのダメ人間ですが霊的修行は続けられています。そして日々、霊的修行が出来る喜びを感じています。

立派な人間には当分なれそうもありませんが契山館の《神伝の法》《霊的修行》には自分が自分のままで強烈に変化してしまう力があります。私は変化してしまった自分が不幸になったとはどうしても考えられません。

byゆたんぽ

 

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立派な人間とは?」への4件のフィードバック

  1. 個人的見解ですが、霊的トレーニングを重ねて行くと、より自分自身を客観的に見れるようになってくると思ます。そうすると自分の至らなさにばかり気付いてきて、それに苦しめられます。

    ですが、ゆたんぽさんのおっしゃる通り、何故か霊的修行ができる喜びに繋がってゆきます。

    人間の本質を知ると、とても立派からかけ離れていると思いますので、私自身は、立派な人間は諦めております(笑)

    紹介されている書籍の「霊的なお話1・武士の時代編」にある「武士の気持ち」には、理不尽を相手取っての潔さが記されています。

    今の私にとっては、それが憧れでもあります。

  2. 僕も普段は本当に職場の人とはメチャクチャな態度で接しているので、立派な人間とは遠いです^^;
    メチャクチャな態度で接して悪いと思いながらも、優しく接すると、どこまでも調子に乗るので、このままメチャクチャな態度で接するつもりです^^;
    でも、たぶん、神伝の法を行っていなければ、自分がメチャクチャな態度で接している事さえ気付いていなかったと思います。
    神伝の法に出会えて本当に良かったです(*´艸`*)

  3. ゆたんぽさんの記事を拝見して思い出したのですが、私は以前、霊的トレーニングをすることで、性格の良い、人に好かれる人になれたらいいなぁ、と思っていました。
    自分が良い状態に変わっていく実感が強くあったものですから、このまま、私のひんまがった性格も良くなるに違いない!なんて望んでいて…。
    今思えば、自分を見つめる努力も無しに、ただ、いつの間にか楽に自分の欠点を指導霊様方が治してくださることを求めていた欲だったように感じます。

    ガンリキさんのコメントにもありますが、霊的トレーニングを続けますと、それまで見えなかったことに気づくようになってくるように感じています。
    自分の性格の悪さも見えて落ち込むこともありますが、何より霊的な栄養を吸収できる場にいる喜びが大変に強いので、自分の悪い性格にいちいち落ち込んでいる場合ではないよな…なんて、今は思えます。

    霊的トレーニングが与えて下さる喜びは、人に好かれたいとか、小さな欲を満たすだけのものではないように感じています。

  4. どう転んでも立派な人間にはなれそうにありません。。。(^-^;

    霊魂学に出会ったからは、世間的には立派な人間になれなくても、霊的により正しい生き方をしたいと思っていました。
    でも、霊的に何が正しいのかもやっぱり分からないので、情けないながら日々悩みながら生きてます!(>_<)

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