神を求める

(本稿での《神》とは、究極の存在である《至上の神》のことではありません。《至上の神》は、あまりにも遠く偉大な存在で、論ずることなど不可能でしょう。
ここでは《神霊》や、《神霊》へと繋がる流れの中におられる、《高貴な霊魂》の方々、《守護霊・指導霊》の方々などへの、一般的な総称として使用している、との前提でお読み下さい。)

私は一時、日々、西洋人と接して生活していました。

現代でも、彼らの多くはキリスト教徒で、毎週、日曜日には教会へ足を運ぶ方が少なくありません。

特に、クリスマスには、一般の会社や公共機関はもちろん、市内交通を止め、商店も閉めてミサに参集し、市民が心を1つにして、イエス師の生誕を祝おうとする姿には、厳粛な雰囲気があります。

《水波霊魂学》を学び始めた今となっては、西洋の問題点についても、理解が出来たことがあります。

しかし、その当時から、私が興味深かったのは、彼らの多くは、恐怖を感じたり、驚愕したり、困難な状況に遭遇したりすると、人目をはばからず、「神よ!」に該当する言葉を、何度も口にするのです。

それは、ただの口癖であって、本当に神の実在を確信しているわけではないのかもしれません。

しかし、少なくとも、「神よ!」と口にする時、その方は神を否定していないし、遠ざけてもいない。

神をバカにしたり、嘲笑ってもいない。恥ずかしいとも思っていない。

それは事実だと思います。

そして、「神よ!」と叫ぶ、その方を、おかしな人として、白い目で見ることもありません。

さて、この日本ではどうでしょうか?

私は、西洋人なら、「神よ!」と口にする場面で、その言葉が日本人の口から出るのを、聞いたことがありません。

恥ずかしながら、私も、心中では神に思いを馳せても、通常、人前では口にすることはありません。

もちろん、口に出すかどうかが問題なのではないと思います。

ただ、この日本で、神を否定し、バカにし、嘲笑うことが正常であるかの如き風潮が蔓延しているとすれば、事態は深刻で、看過することは出来ません。

日本には、いくつかの不幸な歴史や事件がありましたので、神・信仰・宗教・修行=怪しい・危険との風潮が作られてしまったのかもしれません。

しかし、このまま、そのような風潮に流され続けることがあっては、断じてならないと思います。

そろそろ、その流れを変えるべき時にきているのではないでしょうか?

このブログをお読みの方が、《神》や《霊魂》が絶対に存在しない、と否定しておられる可能性は低いと思います。

例え確信は持てなくても、《神》や《霊魂》が存在するかもしれない。

《死後の世界》が存在し、肉体の死後も、《霊魂》となって個性が存続するかもしれない、と思っている方も、多くおられるのではないかと推察致します。

私達の肉体の意識は、霊的なことを知りませんから、最初から確信が持てないのは、当然だと私は思います。

確信というものは、経験を深めていく中で、徐々に得られるものだと思います。

ただ、どうか《神》を遠ざけないで頂きたいと思います。

《神様》でも《仏様》でも、《守護霊様》でも《指導霊様》でも構いません。

《神》に意識を向け、《神》を求め続けることが、元々《霊的存在》である人間には、どうしても必要なことなのです。

実は、私達一人一人を、《守護霊》や《指導霊》という、高級な《霊魂》が担当されていて、私達が霊的に進歩・向上して、死後に下方の苦しみの世界へと落ちないように、援助して下さっています。

《守護霊や指導霊》は、より上位の《霊魂》のご指示に基づいて活動されているので、その流れを辿っていくと、《神霊》へと行き着きます。

《神霊》は、あまりにも偉大な存在なので接点がなく、直接の交流は出来ません。

ですから、現実的に私達と接点があるのは、《守護霊・指導霊》ということになります。

すなわち、《守護霊・指導霊》の援助を受けることは、間接的に《神霊》の援助を受けることであり、《守護霊・指導霊》に意識を向けるとは、間接的に《神霊》に意識を向けること同じであると言っても、過言ではないと思います。

ただし、《守護霊・指導霊》が、どんなに援助をしたくても、援助が出来ない場合があります。

1つは、私達の霊的身体である《幽体》が不健全で活力がなく、《幽体オーラ》が出ていない場合ですが、これについては、当ブログ内でも何度も申し上げてきたので、今回は、別の観点で申し上げたいと思います。

それは、《守護霊・指導霊》援助を拒否して遠ざけてしまう場合です。

《守護霊・指導霊》を始め、《神霊》へと繋がる高級な霊魂方は、私達人間の自由意思を、何よりも尊重されます。

ですから、私達が《神》や《霊魂》を嫌って、関わって欲しくないと願ったら、何も援助が出来ないのです。

本人が望んでいないことを押し付けるのは、ストーカー行為と同じなので、許されていないのです。

今回は詳述しませんが、私達が望んでないのに、隙あらば干渉してくるのは、私達に悪戯をするのを生き甲斐にしているような、質の悪い不道徳な霊魂です。

ですから、私達自身が自由意思によって、積極的に《守護霊・指導霊》の援助を求めることが大切なのです。

私達が求めた時に、《守護霊・指導霊》には、私達に関与する、強い権限が生まれるそうです。

霊的存在である人間は、肉体が全てにあらず。

《幽体》を始めとする霊的身体を保持しています。

肉体を維持するためには、食物の摂取が欠かせないように、《幽体》を維持するためにも、必要な栄養素があります。

ただし、《幽体》は物質ではないので、物質の食物は必要ありません。

《幽体》の健康維持にとって必要なのは、高級な《幽気》という霊的な気です。

《幽体》は、高級な《幽気》を吸収出来ない状況が続くと、栄養失調となって不健全になり、《幽体オーラ》が出なくなって、予期せぬ不幸に見舞われたり、死後は苦しみの世界へ落ちる危険性が高まってしまいます。

そして、その高級な《幽気》をお持ちなのが、高級な《霊魂》である《守護霊・指導霊》なのです。

私達が《守護霊・指導霊》に意識を向け、援助を求めることによって、《守護霊・指導霊》は、私達に近付きやすくなります。

そうなれば、私達は《守護霊・指導霊》から、お持ちの高級な《幽気》を吸収させて頂くことが出来るわけです。

ただし、現代では、この世を取り巻く霊的環境の悪化が顕著なので、《契山館》で指導されている《神伝の法》の《霊的トレーニング》などの特別な手法を取らないと、《守護霊・指導霊》との接点を持ち辛いのが現実でしょう。

そのような時代であるからこそ、《神霊》より、《神伝の法》が降ろされたのだと言えます。

繰り返しになりますが、どうか《神》を、《守護霊・指導霊》を拒否しないで下さい。

そして、出来れば、《神伝の法》の《霊的トレーニング》を習得して、《守護霊・指導霊》との確実な接点をお持ち頂きたいと願っております。

それが私達個人の未来を拓き、人類全体の未来をも拓くことに繋がるのです。

近い将来、日本でも堂々と《神》について語れる時代を、それも口先などではなく、深い《信仰心》の発露として、当たり前に口に出来る時代を、このブログをお読みの皆様と共に到来させたいと思います。

byなおいー

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4 thoughts on “神を求める

  1. 先日、仕事先のお客さんが、自分が選んだ色なのですが、外壁の塗り替えでイメージの違う色を塗ってしまい「お寺みたいになってしまった!近所の人に変な宗教にでも入ったのかと馬鹿にされる!」と今でも泣きそうに私に訴えてきたお婆さんがいました。

    世間の宗教に対しての認識はこんなものなのでしょう・・・

    百歩譲って宗教は嫌いかもしれませんが、せめて素朴な信仰心はなくさないで欲しいです。

    「困ったときの神頼み」

    昔ならこれでも良かったのかもしれませんが、現代の霊的環境では、それだけでは救われにくくなっています。

  2. 今の人は本当に信仰心が無いですよね(-_-;)
    事件などもあったので、宗教嫌いは仕方のない面もありますけど、それで神様まで否定するのはおかしいです。
    おかしい事に気付いて欲しいです(`・ω・´)

  3. こちらのページにある各国宗教観の比較一覧表がなおいーさんの記事の内容を物語っているように思えます。
    https://togetter.com/li/1252186
    日本は(4)「神の存在を信じる時もあるし、信じない時もある。」32.3% が一番多い意見のようですね。
    神を信じられなくても、一度、水波霊魂学を真摯な目でご覧いただきたいです。

  4. ゆずさん、貴重な情報をありがとうございました。

    やはり日本は、(6)の「神の存在に何の疑いも持っていない」と、(5)の「疑問を感じることもあるが、神は存在すると信じている」が低いですね。
    合わせても16%程度ですか・・・。

    でも、二千万人くらいは、おられるとすれば、まだまだ希望が持てますね。二千万人の方々のうち、100人に一人が《神伝の法》の《霊的トレーニング》を始めて下されば20万人ですね。20万人の《幽体オーラ》が輝けば、日本は変わりそうです。

    まだまだ、《神伝の法》の存在をご存知ない方が多いことでしょう。まず、その二千万人の方々に、情報を届けなければと、決意を新たにしました。

    そして、(1)の「神の存在を信じない」という方が、約9%と少ないのも、希望を持たせてくれます。

    (3)の「信じる時も信じない時もある」というのは、正直な思いなのでしょうが、その思いがご利益信仰を助長しているようにも感じます。

    私の居た国はイタリアだったのですが、(6)の「神の存在に何の疑いも持っていない」と、(5)の「疑問を感じることもあるが、神は存在すると信じている」が合わせて70%近いようで、やはり高いですね。

    イタリアでは、信仰について尋ねられることが、よくありました。私は当時、「仏教の神を信じている」と言っていましたが、イタリアには「神を信じない」とは、恥ずかしくて言いにくい雰囲気がありました。

    日本には「神を信じている」と言いにくい雰囲気がありますから、その点は逆ですね。

    余談ですが、多くのイタリア人は、日本については無知で、いまだにサムライやニンジャが居ると思っている人が多いです。

    私も日本では、ニンジャの格好で生活していると思われていました(笑)。

    「ああ、日本?アフリカから大変ね。」と言われたり、「日本に行ってみたいけど、私達が泊まれるようなホテルはあるの?」などと言われたものです。

    どうやら、まだ江戸時代のままだと思われているようです。日本映画やアニメの影響でしょうか?

    そのくせ、日本企業の製品が人気で、どうもホンダやソニーの国と、日本は、同じ国としてイメージされていないようでした。

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