関越道を走りながらの帰り道、ふと思い出したことがありました。
以前ラジオで「赤城山は、女の観音様が寝ている姿に見えるんだ」と年配の方が語っていたのです。
よくある話で、言われてみればなんとなく、見えるような見えないような、そんなものだろうと思いながら、赤城山に向って運転していました。
すると、「見える!、見える!!」誰かと共感したい気持ちになりました。
考えてみれば、じっと山を見つめることも無くなってしまったし、星空を眺めることもありません。
せせこましく生活し、心のゆとりも失ってしまったのでしょうか。
昔の人々は、この山を見つめ神様に祈っていたことでしょう。
byイクラマン
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信仰心のない人には観音様が寝ている姿と言うのは無理があるのかもしれませんが、素朴な信仰心がある人にはその形は奇跡的で、毎日山に向かって頭を下げている姿が想像できます。
そうですね。
山は、ある人にとっては地面が盛り上がっているだけ。
現代人が失っている霊感(霊的感性)のある昔の人々は、霊的な別のものを感じ取っていたことでしょう。
確かに、何となく(*≧∇≦)b
昔の方は信仰心があるからそういう発想も出てくるんでしょうね~(´∀`人)
イソップ童話に「北風と太陽」があります。
様々なとらえ方あると思います。
それでも、地上に生きる我々には、欠くことのできない存在でもあります。
時にはやさしく、時にはきびしく。
原始信仰は、太陽信仰とも言われています。
現代人は、物質的側面において欠くことの出来ない存在がゆえ、太陽を信仰していたと考えるのでしょう。
しかし古代の人々は、難しい能書きや理屈を抜きにして、自然と頭を下げていたと思えます。
もっと、身近な神様が山であったりもするのでしょう。
そして、人間にとって、自分にとって、都合の良い神様を求め、本来の感性を失い、大事な存在を忘れてしまうのかもしれません。
キリスト教徒ではありませんが、「神を試すなかれ」という言葉は、すべての人間に通づるもののような気がします。
イクラマンさん、確かに「そのように見えます、見えます」(笑)。^^
何かを発見した時に、その思いを共感したくなるのも「わかる、わかる」とうなづきながら読んでおりました。
女性の観音様が寝ていらっしゃる山々。
実際に見てみたいです。
むか~し、むかし、それはそれは美しく、気立ての良い赤城姫と淵名姫という姉妹がおったそうじゃ。
早くに母を亡くし、継母を迎いいれたそうな。
その継母も二人の子宝に恵まれ、赤城姫と淵名姫をうとましく思い、淵名姫を殺してしまったそうじゃ。
命からがら逃げた赤城姫は、赤城山の大沼に住む龍に助けられ、その後赤城山の神様に召されたんじゃとさ。
こうして、女性の願いを叶えてくれるということで、子宝、安産を願い、お参りするそうです。
赤城山は裾野が広く(富士山の次??)美しい山です。
春は下から緑色に染まり、秋は上からだんだんと赤く変わってゆき、冬には白くなります。
高い山はどこでも同じでしょうが、イクラマンは赤城山の色で季節の移ろいを感じます。
女の人と言わず、観音様と言うところに信仰心を感じますね。(^^)/
私も、そんな素朴な信仰心を伸ばしていきたいです。
僕も、霊的修行者と思っていながらも、日々の生活に追われ、こんなんで良いのかと、ため息ばかりです。
一生、永遠に修行とも言えますので、道のりは長いですね。